村の端から端まで歩いても、知らない人はいほとんどいない。食べるものにも水にも困らない。JTにとって、カシンの村は世界で一番へ平和な村だった。

 

 村の北のはずれに住むエレザばあちゃんちはJTたち女の子の溜まり場だった。立派なレンガ造りの家の扉は開けっ放しで、「お邪魔します」と大きな声で叫んで自由に出入りする。ばあちゃんは物知りなうえに親切で、文字や数字も教えてくれる。書棚には田舎の小さな村には似つかわしくない皮表紙の本がたくさん並ぶ。それに、女の子が興味のありそうな話をよく知っているし、ちょっとした悪戯をお母さんに言いつけはしない。

 栗色の髪をふたつに結った女の子が一冊の本を持ち寄り、JTのそばへ走りよってくる。JTより3つ下のこの子はまだ難しい字が読めなくて、こうやってJTに聞くために本を持ってくる。

「T子ちゃん」

 というのは、JTのあだな。と言ってもこの子しかそうは呼ばない。その子は茶色の皮表紙の本を抱えてJTの元へ駆け寄り、その本を床に広げた。

「ここの……ここのとこ。T子ちゃん読めない?」

「んん〜?」

 本を閉じて表紙を見る。

「魔法……発動、書?」

 よくみると、先ほど開いたのとは別のページに付箋のようなものがはさんであった。折り畳まれたその付箋紙を引き抜くと、細かい字で何か書いてあった。

「……あっ」

 JTの手からメモ用紙が抜き取られる。首と体を後ろに倒すと、そこにいたのは、さかさまのエレザばあちゃん。この屋敷の家主。

 ばあちゃんの格好は物語に登場する魔女そのもの。暗色のローブ、同じ色のフードで長い白髪を隠し、腰は緩やかに曲がっている。

「あっちの棚から本をとっちゃいけないって言っただろう」

 曲がった腰をさらに曲げ、本を手にとる。

「これはね、魔術の心得がなくても魔法を使うことが出来る本なんだよ。この本は危ない魔法じゃないけれど、火が出る魔法の本もあるからね。危ないから、もう持ち出すんじゃないよ、JT」

「はあい……ってかあたしじゃないってばっ」

 横を見るとその本を持ち出した子はすでにそこには居らず、何事もなかったように人形遊びをしている他の子たちの輪の中にいた。そのこはJTの顔を見ると、少しだけ申し訳なさそうに、だけど悪戯っぽくぺろりと小さくかわいい舌を出した。

「こらあっ!」

 JTが追いかけるとその子はきゃっきゃっと笑って逃げた。

 

 JTにとってカシンは世界一平和な村。どこかと比べたわけではないけれど。

 

 

 

 新しい年を迎えて自分の年齢が上がるたびに新たに削った木剣、それと父親譲りの炎の魔剣を持ち出して村の西外れの神木の下へ。そこで剣の修練を行うのは、チャンスの日課だった。

 ただ、ここしばらくの間、チャンスはその修練に身が入らないでいた。チャンスには小さい頃から何年もの間、ここで一緒に剣の練習をしていた友人がいたのだが、しばらく顔を見せたことがない。喧嘩別れ……というほどではないが、互いの感情にすれ違いが生じて、その結果、彼女のほうがチャンスを避けるようになった。そのきっかけとなった事由があって以来、その友人とは顔をあわせていない。こちらから家を尋ねても、顔を合わせてもらえなかった。だけど時間がたてばきっともとどおりになるものだと、無邪気に信じていた。壊れたものが壊れっぱなしであるはずがないと信じていた。

 たった一人の練習はとても退屈で、チャンスはいつもの練習量の3分の1だけをこなしてやめてしまい、草の上に寝転んでしまった。

「…………」

 チャンスは、いつも一緒に剣を振っていた友人の顔を思い浮かべる。 

ミニーおばさんのとこの、チャンスと同い年の、ロミナ。女のくせに、チャンスよりずっと剣の扱いが上手なロミナ。

チャンスは寝転んだままゴロゴロと転がり、神木のそばにおいてある炎の魔剣を手に取って掲げ、その赤い刀身を見つめる。ロミナはいつも、チャンスがいつも、母に黙って持ち出すこの赤い剣を、キレイな宝石でも見るように眺めていた。

(この剣あげたら、仲直りできるかな)

 この炎の魔剣は、チャンスの父親が彼を故郷の元恋人のもとへ預けた際、一緒に預けられたものだ。子供の頃からよく持ち出しては母――そう呼ぶことに、チャンスは一切の抵抗もない――に叱られたが、近頃は全く何も言われない。チャンスはこっそり持ち出しているつもりだが、母が気づいている上で何も言わないでいることも知っていた。

そんな、チャンスにとっては宝物のような剣だが、彼の価値観の順列の上位には多分、ロミナがいる。チャンスのなかでは、魔剣はどこまでも道具であり、また、見も知らぬ父親が預けたものかと思うと、やはりそれよりは同じ場所で育った友人のほうが大切だとも思える。

この剣を放り出したときに、母がどんな顔をするのかも見たかった。十数年も育てられてきたが、チャンスには、母がどんな顔をするのかも想像もつかない。

 

そんなことを考えながら刀身を見つめていると、

 

――――ドオン

 

地が鳴る音が響いた。

ぱっと跳ね起き、音の発生源と思しき場所を目指して走り出した。

 

 

 

7か、8……もしかしたらそれより多いかもしれない。とにかく、カシンの村に程近い浅い川辺で、ユーネは10匹近い数のオーガに周囲を取り囲まれ、その中心で往生していた。

いや、往生していたというのはこの際そぐわないかもしれない。なぜならユーネの表情には余裕の色しかない。あとは、オーガの醜悪な外見に対する嫌悪感だけだ。

「さて、どうしたものかしらね」

 そういって髪をかきあげる。

 これが相手をなめきったしぐさであるということをユーネはこれっぽっちも自覚してはいない。知能の低いオーガであるが、それゆえにそういったしぐさには余計に興奮する。

 オーガたちは、すでに3匹もの仲間をユーネの魔法で葬られているが、臆した様子もない。とはいえ、即座に襲い掛からないところは、オーガたちの本能がそうさせているといったところか。

 ユーネの当面の問題はただひとつ。大げさなことにならずにこの局面を乗り切ることだ。手加減することを考えなければ、ユーネは眼前の、正確な数もわからない不特定多数のオーガたちを一瞬にして葬り去ることが出来るだけの力を持っている。だが、それをするには膨大な魔力を使ってしまうし、なにより目立ってしまう。村に近いこの場所でそういったことをするのは出来れば避けたい。できれば穏やかに入村したいという意向が、この状況の進展を鈍らせた。

(といっても、この状況じゃ仕方ないかしらね……)

 ユーネは呪文の詠唱を開始する――が、

「おおおおおッ!!」

 という叫びが、ユーネの詠唱を妨げるように割って入る。その声の主はユーネを囲んで輪になったオーガたちに躍りかかった。

 あっという間に2匹、3匹のオーガが、たった今現れた影に切り伏せられ、残りのオーガ達はユーネのことを忘れたように、足元の川の水でばしゃばしゃと音をたてながらその影に殺到した。

(あったま悪い!)

 それを見計らって、ユーネは先ほどとは違う魔法の詠唱をはじめた。ユーネの眼前に、自分の頭よりふた回りほど大きい炎の玉が具現化される。ユーネはそれを手近なオーガに向けて打ち放つ。瞬く間に、3匹のオーガが炎に包まれて消滅する。

 現れた影は、その光景に少し驚いたが、それも一瞬のことで、すぐにオーガとの斬りあいに集中する。獅子のたてがみを思わせる、わずかに赤みがかった黒髪を振り回す、体の大きい、少年だった。

その手には、赤い刀身の剣。

 

 ユーネと少年の手にかかり、オーガたちはあっという間に全滅した。わざわざ正確な数を数える気にはとてもなれなかったが。

 ユーネは改めて少年を見る。ユーネも同年代の女の子に比べれば背の高いほうだといわれるが、この少年も同じくらいの年齢の少年達に比べれば、頭ひとつくらい大きい。すでに大人みたいな体格をしているが、そんな彼を大人だと思わなかったのは、身に纏った雰囲気が自分よりずっと幼いからだ。彼女は見も知らぬ他人の年齢をかなり正確に言い当てることが出来るし、自分の人間観察に自信があった。洞察といったほうが正しいかもしれないが。

(大きいわね……田舎の子ってみんなこうなのかしら。それとも東の大陸の子だから?)

 などと、彼の年齢を聞く前にそんなことを考えていたりする。まるではじめから、彼の年齢を聞いて知っていたかのように。

 そんなこんなで、ユーネは先に話しかける機会を逸してしまった。

「旅の人?大丈夫だったか?」

 背の高い少年が話しかけてくる。まるで、少女向け小説の序盤の展開みたいだと思った。別に、この少年にわずかにでもときめいたわけではないが。

 ただ、少年の力量には驚いた。

「……ああ、ごめんなさい、ぼおっとしてて。助けていただいて、ありがとうございます」

 おかげで、大した騒ぎにもならず村に入ることが出来る。オーガの群れをふたりで殲滅したことで近くの村では少しは騒がれるかもしれないが、それはユーネが危惧した類のものではない。

 ユーネは、助けに入った少年剣士の名前を尋ねた。

「俺は、カシンの村のチャンス」

「……チャンス?」

「?」

 ユーネは少年の顔を、右手の剣を、じっと見る。

「チャンスって、アークエスの息子のチャンス?」

 

 

 

 日も落ちかけてきた頃、友達と別れたJTは自分の家に帰った。

「ただいまー……あれ?お客さん?」

 家に上がると、チャンスともう1人、家人のものではない気配に気づく。

この場合、たいていは母の友人のミニーおばさんが遊びに来ているか、ごくたまに村の長老格のじいちゃんが真面目な話をしているのだが、どうやらいずれでもないようだ。ミニーおばさんは母と一緒にいつもうるさく話をしているし(JTも混ざるのだが)、じいちゃんがきたらぶつぶつといろいろ言ってるからだ(そして、ほとんどの場合母は聞いていない)。

 JTはリビング(この家ではテーブルの部屋と呼ばれる)に足を踏み入れる。知らない人がいたところで、どのみち人見知りするたちではない。

 4つある椅子のお客さんの席のうち、ふたつが埋まっていた。ひとつにはチャンスが座り、もうひとつ、お客さんの椅子には、予想通りJTの知らない誰かが座っていた。

「あ……」

髪の長い、兄のチャンスと同じ位の年齢の少女。その姿は、屋敷のばあちゃんちにあるエリクシア製の西洋人形のモデルかと思うほど、きれいだった。その姿に、魔性じみたものすら感じた。

その左の二の腕には、その神秘的な美しさを象徴するかのような、美しい銀細工の腕輪が填まっていた。

「こんにちは」

「こ、こんにちわっ」

 少女が小さく微笑んでJTにあいさつをする。人見知りをしないことを自慢とするJTだが、不覚にも驚き顔で挨拶を返してしまった。そんなJTをみて、少女はまたにっこりと微笑み、JTに話しかける。

「私はエリクシアのユーネ。とある目的のために旅をしていて、カシンにはちょっとした用があって寄ったの。チャンスとはそこの川辺で出会ったのよ」

「あ、えと……あたしは、JT。――ユーネは、エリクシアの人?ずいぶん遠くから来たんだね!」

 エリクシアは、ここ東の大陸とは海を隔てた西の大陸にある、華やかな魔法文化が栄える世界有数の大国である。この東の大陸では武勇を誇る剣の王国ジュデンがあるが、エリクシアはそれよりずっと大きい。

「だってさ、カシンなんて東の大陸の端っこにあるんだから、かなりの距離でしょ?」

「まあ、地図の上ではね」

「地図の上では?」

 それがどういう意味かは、JTには分かりかねた。

JTはユーネの耳に注目した。先ほどから気づいていたのだが、ユーネの耳は細長く、先が尖っている。エルフ種などの亜人種に見られる特徴だ。

「ユーネは、エルフのひと?」

「……うん、まあね」

「?」

 ユーネが少しだけ目を落とした。気に障っただろうか。エルフ種というのはたいてい自分の出自や血に、人間以上のプライドを持っているものだ。ユーネの態度は、エルフの典型的なものではなかった。

「……ユーネの用って?」

「ええ、それはね」

 そのとき、家のドアが聞きなれた音を立てて開く。そして、

『ただいま〜』

 と、言った声の主は、テーブルの部屋までまっすぐに歩いてきた。

「おかえり!」

 JTが声をかける。この家の家主であり、JTの母親である、モモ。30半ばを過ぎた、という年齢であるが、その顔は年齢よりだいぶ若々しく見える。

 JTが出迎えると

「はぁ〜いJT!ただいま」

 モモは両手を広げてJTを迎え入れ、彼女の頭を両の腕で抱くようにする。JTは苦しがったが、あえて逃れようとはしない。こんな露骨な愛情表現が、JTは嫌いじゃなかったから。

「はいはい。でかいのもただいま」

 そういってチャンスにはぶっきらぼうな顔を作り、頭部にチョップを見舞う。

「ぐあ!」

「アンタのアタマ痛い!」

 殴っておいて逆に怒りながら、叩いた手でチャンスの髪をくしゃくしゃにするモモ。

「おいこら!この扱いの差はなんだよ!」

「母親にむかってオイコラとはなんだアホ息子!」

 チョップ連打、連打、連打。ぐあああああ。

 その様子に、ユーネは少しあっけに取られているようだった

「で、そっちの美人の子は?」

 JTを抱えながら、視線をユーネに移す。楽しそうにチョップを見舞ったチャンスへの興味は一瞬にして失せたようだ。

「お母さん、その娘はユーネっていうの。エリクシアからきたんだって」

「へえ――。こりゃあまた、遠くからきたもんだね。こんなへんぴなところへ何の用だい?」

「はじめまして、ユーネです。……性急で申し訳ないですけど、その用件というのは――」

 ユーネは居住まいを正し、物怖じしないきれいな顔に小さな微笑でアクセントを作って、モモの顔をまっすぐ見つめた。

「――チャンスを、私の旅の同行者として連れて行きたいと思います」

 

 モモは口元をゆるませ、ニコニコとそれを聞いていた。だが、

「やだね」

 目は笑っていなかった。

「カシン村はね、もうずいぶん前から若い子らジュデン都とかあっちゃこっちゃへ流れるようになって、もうこのままだとじいちゃんばあちゃんばっかしか残らないしね」

「…………」

 そういったモモの言葉を、どうやらユーネは本意とは捉えなかったようだ。顔がそう言っていた。

(そんな顔したって、あんたにほんとのことなんていうわけないだろう)

 微笑で美形の顔をねめつけながら、

「チャンス」

 押し黙り、だが、自分から一切顔を背けなかった息子の名を呼んだ。

「あんたはもう聞いてるわけね。返事、したの?」

 チャンスは椅子から立ち上がり、言った。

「母さん、俺、行くつもり」

「…………」

「カシンから出て行きたいってわけじゃねえんだ」

 一言一言の間に長い間を挟みながら、言葉を詰らせながら、チャンスは言葉を紡ぐ。チャンスとモモふたりのさまは、まるでいたずらの言い訳を思い浮かべては口にする子供と、静かに怒気をはらませながら黙って聞く母親のようだった。

「出て行きっぱなしってことはない……培ってきた、剣の腕を試してみたいし……」

「やめな。今考えたふうにしか聞こえない」

 モモの言葉に構わず、チャンスは続けた。

「……それに」

 たっぷりと間を空けて、チャンスは口を開いた。

「……旅をしていれば、父親……本当の親に会えるかも」

 ガタン……

「だったらもう、アンタはあたしの息子じゃないよ」

 その一言に、落ち着きのなかったチャンスの顔は、まるですっと冷めたように落ち着きを取り戻した。いや、それは諦めを伴った表情だったかもしれない。

「……だって俺は、母さん…の、本当の息子じゃないだろ……」

 チャンスのその一言に、モモはしばらく押し黙り、やがて、

「あっっっ……そ」

 モモは強い口調でそう吐き捨てると、傍に立っていたJTの頭にぽんと手を置き、JTに部屋へ戻るように促した。

 だが、JTの体がそれに応える様子はなかった。

「連れて行く……って」

 JTののどが弱々しくつぶやく。彼女の顔には、呆然と悲しみがない混ぜになったような表情が浮かんでいた。

 ユーネの言葉に最も強い衝撃を受けていたのは、彼女だった。

 モモは、今度はJTの体を預かり抱え、寝室へと連れて行った。

 

 

 

「ふう……」

 よその家のことに首を突っ込むのは疲れるわね、ユーネはため息をつきながらそんなことを考えていた。

事の原因を作ったことについて、全面的に自分に非のある話だとは考えていない。自分はチャンスにその話を提示し、チャンスが了承した。私個人と彼個人の話、これは相違言う話のはずなのだ。

チャンスは首をうつむかせ、「あ゛〜……!」とうなりながら少しイライラした様子で、右手でガシガシと髪をかきむしった。

 そんな彼に、若干無神経かな、とも考えたが、

「で、今の話は結局どうなったということなのかしら?」

「……なにも問題ねえよ。行く」

「ま、スムーズにいったら一番よかったんだけどね」

 ここでスムーズに話が済んだなら、翌日にでもチャンスを連れて発ちたいとすら考えていたのだ。

(さすがに、そういうわけにもいかないか)

 チャンスから、彼女はモモの実の親ではない、ということを聞いていたが、親子の情というものはやはり血縁によらないものだ、と実感した。ユーネはこういった情といった人の感情も、理詰めで考える傾向にあった。それは、己の体に流れる血と環境に起因しているかもしれない。幸福な家庭生活を“嘘”と捉えてしまうことすらあった。

 素直に身に染み入る物事など、彼女にはほとんどなかった。

 やがてチャンスはのろのろと動き出し、

「……もう遅いから、メシ食って休めばいい」

 チャンスが用意した簡単な食事がテーブルに並んでいた。

「さっき荷物を置いたお客用の部屋に寝ればいいから」

 チャンスはそういうと、自室へ引っ込んでいった。

「あなたは食べないの?」

 そう呼びかけたユーネの声にチャンスは返事もせず、部屋へ引っ込んだ。

「……お客さまをないがしろにして。この家の人はどうなってるんだか……っと」

 ユーネは壁に立てかけられた、赤い柄の剣をちらりと見た。

 チャンスが使っていた、赤い刀身の『炎の魔剣』。

(この魔剣さえあれば、べつにいいんだけどね。ほんとは)

 ユーネが用があるのは、実のところその炎の魔剣の方だった。そこにたてかけられている魔剣を持って村を離れれば、この場所に用はなくなる。

 だが――

「……ま、ね」

 そうするのは、なぜだか気が引けたのだ。

 

 

 

 チャンスがいなくなる。そんなこと、考えてみたこともなかった。

 

 晴天の下、JTは丘の上に寝転がってこれまでちゃんと考えもしなかったことを考えていた。

カシン村に居て、家畜の世話をして、畑を耕して、時間の空いたときは剣の練習をして、あたしはそれを眺めてて、ずっと一緒にいる。そんな風に考えていたのだ。

 ずっといっしょにいる。

(……え?)

 それが何を意味するか、JTはちゃんと考えたこともなかったし、その問題を突きつけられて今でも、それをきちんと捉えることが出来ない。

 わからないのではない。きちんと目を向けることが出来ない。

(チャンス……)

 チャンスのことを考えると、涙が出た。その感情は、家族の旅立ちを悲しむ気持ちではない気がした。

 JTは少し前に、カシンの村を旅立った青年の話を酔った母から聞いたことがある。エルフだかエデューテだかの怪しい旅人に連れていかれたその青年は、母――モモ――の昔の恋人だったという。母はそのとき、一緒に行くこともできた。だけど、母は村に残ることを選んだ。自分は旅に出る覚悟などなかったし、旅が終われば村へ、自分の下へ帰ってくると信じていたからだ。

 だけど彼は村には帰ってこなかった。20年もの長きに渡って旅をしたなかで、近くに寄ったこともあっただろう。それが彼のけじめか、村を嫌ってのことかは分からない。

ただ、彼とモモとの時間は断絶した。

モモはそのことを後悔しているだろうか。

「JT……どうしたんだい」

 話しかけてきたのは、レンガ屋敷のエレザばあちゃん。

「ばあちゃん……」

「つらいことでもあったかね」

彼女は、JTに優しく問いかけた。JTはエレザに、昨夜のことを話した。エリクシアから来た少女のこと、チャンスがその少女について旅に出ることを決断したこと、そして、JTのあいまいな気持ち。

「ふむ……それで、JTはどうしたいんだい?」

「わかんない……」

「そうかい」

 エレザは優しげな微笑をJTに向けた。

「なんにせよ、故郷が一番いい。生まれた場所で、郷の者達に囲まれて穏やかに過ごすことが、一番の幸せさね」

「そんなもんかな」

「そうさ」

 そのふたりに、声をさしはさむものがあった。

「ずっとそうできるなら、そのほうがいいかもね」

「あ……」

 口を挟んだのは、旅の少女ユーネだった。

 エレザはユーネの顔をしばし眺めた後、JTとユーネを残し、その場を去っていった。

「あのおばあさん……」

 ユーネは立ち去る老婆の背中を眼で追った。ポツリとつぶやいたユーネの言葉に、JTが返事をする。

「エレザばあちゃん。下の家に住んでるの」

 JTは顔をくい、と下げて、と丘の下を見やる。そこには、JTたちが溜まり場にしている立派なレンガ造りの屋敷があった。

「ふうん……すてきなお家ね」

 ユーネは心無くつぶやいた。ユーネはそんなことを聞きたかったわけではない。

(あのおばあさん……)

「ねえ……」

「ん?」

 立ち去った老婆のことを考えていた最中に話しかけられ、ユーネの考えは霧散した。

「ねえ、ユーネは……チャンスを連れて行くの?」

「ああ、その話……」

 済んだ話だという認識がユーネにはあったのだ。家族がなんといおうと、最終的には本人の意思だし、彼が本気で行くつもりなら誰も止めることは出来ない。そして、彼にはその意思があったのだ。

「お兄ちゃんが居なくなると、さびしい?」

「それは、そうだけど……でも、それだけじゃない、って、思う」

「それだけじゃ、って」

 ユーネは、とても複雑な感情を表情に見せた。迷いがあり、なおかつ恥ずかしげな表情でうつむいて、下を向いてつぶやいた。

 その表情の意味するところがユーネにはわかったから、ユーネは、

「じゃあ、JTも行く?」

「え……」

 ユーネの突然の言葉に、JTの顔にありありと驚きの色が見えた。その選択を、まるで考えもしなかったかのように。いや、そんなこと、実際考えたこともなかったのだろう。

 軽い気持ちで言ったユーネの言葉は、JTの心をひどくかき乱したようだ。

「ごめん……帰るね」

 JTはユーネの顔を見ずに言うと、踵を返して家路へ付いた。

 

 

 

「ごめんなさいよ」

 ヤサぐれの体でミニーの家の扉を開けて入ってきたのは、ミニーの30年来の親友、モモだった。

 モモは勝手に上がりこむと、これまた勝手に棚から酒瓶とふたりぶんのグラスを引っ張り出し、ひとつを自分の分にし、もうひとつをミニーの前へ差しだした。

「……お客さん。いつも言ってますけどね、わたしんちは飲み屋じゃあないのよね」

「まあまあ。勝手知ったるなんとやらって申しましてね」

 しかも、モモのそれはこの家がまるで自分の店であるかのような振る舞いである。

 さらに、乾杯でもすれば少しは可愛げもあろうというものだが、モモは1人で勝手に酒をあおり始める。ミニーは呆れてため息をつきながら、自分のグラスを傾ける。いつものことなのである。

「あ、おいし。アンタのダンナは相変わらずいい酒選んで送ってよこすね」

「そりゃあどうも」

 あさっての方向を向きながら言うミニー。

「ロミナはどうしたのよ?お酌してもらおうと思ったのに」

「もう寝たわよ。何時だと思ってんのさ」

 はあ〜、と深いため息をつく。

 モモがこんな風に家にやってくるのは、ミニーにしてみれば「めんどくさい」悩み事を抱えているときだ。ミニーは単刀直入にモモに問いかける。

「で、今回はどうしたの」

「うっ」

「あんたの家に転がり込んでるっていうエルフ娘の性格が図々しくて困ってるとか」

「う、う……」

 ミニーがてきとうに言った言葉に反応して、モモがテーブルに突っ伏す。

「な、なによ、洒落じゃん!図星なわけ?」

 まるっきり冗談で言った言葉にあまりに素直に反応するものだから、ミニーのほうが戸惑ってしまう。

 そんなミニーをヨソに、モモが涙を流しながらうなり声を上げる。

「ううううう……」

「ああっもうウザ!ウザすぎる!」

 グラスの中身を全部あおってテーブルに叩きつけるミニー。そのグラスにモモがなかば反射的に酒を注ぐ。

「いや、だから注がんでいいから」

「うああん!うちのチャンスが、エリクシアの魔女娘についてくって〜……」

「ええ〜!……うわ〜、そりゃあ……」

 唖然とした顔でモモを見つめるミニー。その顔には明らかに同情の色がうかんでいた。

「それもう血っていうか、呪われてんよね。あんたンちじゃないけどさ」

「……なによミニーってば、あんまり驚いてない」

「ん〜……まあ、ね。あの子はいつかどっか行く子だって思ってたし」

 お決まりでいえば、“こんな小さい村で収まっているような子じゃない”とミニーなどは思っていたのだ。だが、それは必ずしも親の希望とは合致しない。

「いいじゃん。アンタのおなか痛めて産んだ子じゃないつってゆってたでしょうが」

「…………」

「……はいはい。悪かったわよ。意地悪だったね」

 頬杖ついて微笑してモモを見つめるミニー。こんな関係は子供の頃からずっとだ。ふたりはずっとカシンで暮らしてきた。

 そのあとにミニーがつぶやいた言葉は、モモにはずいぶんと意外なことだったかもしれない。

「で……JTは行かないの?」

「………………は?」

 きょとんとした顔で、

「なんで?」

 と問い返すモモ。

「なんでって……だってほら、あの娘、チャンスのこと……」

「…………」

「あれ、あ、いや、ごめ……そんなの別に、ついてく理由になんないよね」

 モモは昔、恋人だった男が外から来た旅人に連れられ旅に出た。そのとき、モモは共に旅に出ることを選ばず、村で彼を待った。

 チャンスはその彼の子だが、モモの血を継ぐ実子ではない――

 ミニーが弁解したのはそのことが頭をよぎったからだ。

「あれ?その様子だともしかして知らない?親ってそんなもん?」

「……だって、チャンスはアンタんちのロミナこと好きだと思ってたし」

「あ?チャンスじゃなくて、JTのことだってば。JTが行きたいかどうか、でしょ」

 

 

 

 いやな気配に誘われて、ユーネはチャンスたち家人に気づかれないように夜の闇へふらふらと出て行った。

(臭い……)

 気配に導かれるままに足を出してたどり着いたのは、村はずれの立派なレンガ造りの屋敷。

 そこの主である老婆が、屋敷の前に立っていた。

「匂いの元は、あなた?」

 屋敷の主――エレザはその問いに答える。

「香りといって欲しいね。あんたはこの香りに誘われると思ったよ」

「あまりよい趣味の香りじゃないわね」

「あんたの好みは知らないよ」

 半眼でねめつけるようにユーネを眺めるエレザ。

「あんたは、新しい世代の魔みたいだね。――それも人と魔の半々だろう」

「……あなたも香りでわかるの?」

「わかるさ。ほんの微かな人の匂いと、青臭い魔の匂いがするもの」

「なるほど、ね。どうりで、ここからは、死臭がすると思ったわ」

 それを聞いたエレザは、はじけるように笑った。

「ひゃハッ!“魔”からはいつだって死の匂いがするもんさ」

 あたりの闇が膨れ上がった気がした。

 いや、膨れ上がったのはエレザが纏った黒衣だった。彼女の黒衣が大きく膨れ上がり、やがてそれはまた縮み、エレザを飲み込んだ。

たった今までエレザがいた空間には、大きな黒い球が浮かんでいた。球はやがて光沢を帯び、次に表面に亀裂を走らせた。

 球の亀裂から、細くきれいな腕が伸び、もう片方の手で黒い殻を砕き、……やがて顔があらわになった。

 その顔は先ほどまでの老婆のものではなく、長い黒髪をたたえ、口元に赤黒い紅を差した美しい女の顔だった。

 やがて彼女は一糸纏わぬ全身をユーネの前に晒した。その脚が大地に触れると、足のつま先が黒く染まった。その黒はだんだんと彼女の体を侵食し、最後には頸から下が黒く染まった。

 黒いローブの老婆とは印象を一変させたが、変貌した今の姿も十分に魔女を連想させた。

 ユーネは左腕の銀細工の腕輪を右手でさすりながらその様子を眺めていた。

「ひとつ教えておいてあげる。あたしは香りを隠そうとしなかっただけさ。でもあんたは、魔の香りを隠せなかった」

 その声までも、若い女のものに変容させた。

 エレザであった黒の魔女は、呪文も唱えずに両の手に黒い炎の球を具現化させ、それをユーネに放った。

 ユーネを黒い炎が包む。背の高い炎の柱が聳え立った。骨をも溶かしかねない高熱が密集し、辺りを熱気で包む。

「青臭い魔の小娘が……若いのは礼儀知らずでだめだ」

炎の柱が収束する。そこには彼女の死骸も残っていない……はずであった。

「…………!?」

 消え行く炎の中から、先ほどまでと変わらぬユーネの姿が現れた。彼女は左手に、先ほどまで左腕にはめていた銀細工の腕輪を握って突き出し、突き出した左腕の二の腕を右手でがっしりと掴んで消えかけた炎の中に直立していた。

 だがしかし、その身にまとう雰囲気は先ほどまでとは一変していた。

「私からもひとつ教えておいてあげるよ、ロートルのクソババア……」

 邪悪さが全身からにじみ出ていた。その様を、黒の魔女は瞠目してみていた。ユーネは黒の魔女と同じように、呪文を唱えずに魔力の一端を発動させる。翳した左手に、稲光が走る。

「匂いとか何とか、そんなものは魔のもつ素養――力なんかとは一切関係ないんだよ」

 ユーネの“魔法”が発動し、黒の魔女が内側から爆ぜた。

 

「くっ……」

ユーネは表情に苦悶の色を浮かべる。震える手で手に握っていた銀細工の腕輪を、左の二の腕にはめる。それをするとそうやくユーネは落ち着きを取り戻し、彼女を釣っていた糸が切れたかのように、その場に膝を着く。

「……はあっ、……はっ、」

 その様子を、残った首だけで笑う黒の魔女。

「ひゃ、ひゃ、ひゃ、……くっ、は。あんた、その銀の腕輪で魔性を抑えつけてたってのか。ひ……どうりで、魔力が、ずいぶんと小さかった、わけだ…………」

 釘で縫い付けているかのように、その整った顔から品のない笑みは剥がれない。

「そうでなきゃ、あたしのような……すりへった魔が、勝てるなんて勘違いしてけんかを売ったりしない」

「……どうして、あたしを誘った。どうしてあたしを始末しようと思った?」

 ユーネは顔に汗を浮かべ、まだ余裕のない息遣いで黒の魔女に聞いた。

「魔は、邪悪だけど、戯れに魔を消そうとはしないはず。そこに利害があったときにしか」

「…………」

「いわないなら、別にいいけど」

 ユーネはがそれだけを言い、踵を返して

「……あんたがね――」

 足を止め、話を聞く姿勢を整える。黒の魔女の声は、老婆エレザのものに戻っていた。

「――あんたがチャンスを連れて行くとね、泣く子がいるんだよ。きっと毎日泣くよ」

「……おどろいた。魔にも情なんていうものがあるの?」

「あんたも魔じゃないのかい?」

「…………」

 普段魔性を抑えているユーネは魔であるという“気分”が希薄だ。わざわざ隠して生きている、という程度には、自分が魔だと言うことを意識しているが、そういった面の分析をしないし、魔性を開放している間はその抑止に必死であるためその感情について意識したことはない。すべて衝動だと感じているが、それが感情から起因しているものだとも考えたことはない。

「魔はね、きどった神なんかよりよっぽど情が深いんだよ。まるで人と同じにでもなったつもりで人のなかで生き、人の喜び、悲しみに同化して……だけど魔のそんな感情も、最後には変容して、人の感情を全て餌にするんだ」

 ユーネは顔をゆがめて魔の首を一瞥し、背を向けた。魔はめったなことでは死を迎えないが……手をかけた自分は分かる。この魔は放っておいても、ただ力なく死ぬだけだ。

「あたしからも聞かせておくれよ。新しい魔のあんたはなんで旅をしているんだい?」

「……魔を否定して、この力を突き返すためよ。そのために、チャンス……というか、炎の魔剣が必要」

「魔性を返す……で、魔剣?そうか、魔剣ヴァハー……」

「……知ってるの?」

「人の魂を食らって力を与える魔剣ヴァハー……その魔剣には魔の膨大な“力”と“魔性”を封印することができる。……そんな御伽噺は魔の間じゃあ有名さ。魔性を封じ込めて、力ないただの人間になる。魔であれば誰も彼も、自分が魔であることを気に入っているから、誰も試したことはないがね。それで“魔剣”か」

 ユーネは己の知る情報の裏づけをとるように、黒の魔女の話を聞く。

「魔剣は一度対峙した魔剣を忘れない。そして、打ち合った魔剣は惹かれあい、再び出会うと言われている、そんな話だろう?」

 そうだ。そして、チャンスの持つ赤い魔剣の前の所有者……チャンスの父親は、以前ヴァハーと戦ったことがある。

魔女が言った情報はすべて魔である母から得ていた情報だ。この死ぬ間際までもおしゃべりな魔女から話を聞いて、母の情報のすべてに確信を持った。

――魔剣ヴァハーに忌まわしい魔の力を封じ込める。その魔剣の行方を追うため、ヴァハーと打ち合ったことがある炎の魔剣を手にする。それが、このカシンの村に来た目的。

魔女の顔に、再びはりつくいやらしい笑顔。

「ひゃ、ひゃ。なんていじらしい、愚かな女の子だろうね。あまりにもかわいらしくて、その頸に齧りつきたくなるよ!」

「…………!」

 黒の魔女の首が歯を剥き、恐るべき速度でユーネの首をめがけて飛んできた。ユーネの頸が食いちぎられようという、その瞬間、

 どしゅ、という音を立てて、黒の魔女の顔面が砕けた。

ユーネは呪文を詠唱し、炎の魔術で黒い魔女の頭を焼き尽くした。

 

 火の粉の中心で、地面に突き立っていたのは、

「……炎の、魔剣」

 チャンスの炎の魔剣が突き立っていた。この魔剣が、魔女の首を直撃し、ユーネを守ったようだ。

 ユーネは剣が突き立っている角度から、この剣を投げた者を探した。

 そこにはやはり、この魔剣の持ち主である少年の姿があった。

「ユーネ!平気か!」

 彼は走ってユーネに下に駆けつけてきた。

(やはり、いいセンスしてる……)

と言うべきか。

 遠くはない距離で、対象を見事に貫いた。剣を投げる訓練などしたこともなかっただろうに。

 チャンスがユーネの元にたどり着き、周囲を見渡す。チャンスは何事もなかったように、炎の魔剣を引き抜いた。その周囲に飛び散ったはずの黒の魔女の焼けた遺骸は、火に焼けていやな臭いを放ち、あたりに散っていた。

「ありがとう、チャンス。助かったわ」

「それよりお前、今ここにいたやつって何だよ!」

「どこから見てたの?」

「え、いや……黒い塊が浮かんでて、そん中から女が出てきて……」

「…………」

「あれ、そいつが吹っ飛んだのって、やったのお前だろ……魔術で。それにお前、黒い火に焼かれたのに、全然……」

 魔女の肉片はぶすぶすと灼け、小さくなっていく――

「チャンス……」

 ――いや、それは焼けて小さくなっているわけではなかった。その縮み方は、あまりにも不自然で、端から順に消えていったのだ。そこには砂粒ほどの灰も残さない。

「もう一度聞くわ、チャンス。どこから見てた?」

「あん?……だからお前、えっと、お前が炎に焼かれてて」

「そこが最初?」

「最初だろ。……ん?最初……?あれ、炎ってどっから、なんで?お前がすげえ魔術使ったのはわかるんだけど……何に対して?」

「チャンス」

 ユーネはそこに建っているレンガ造りの建物を指差した。黒の魔女であるところのエレザが長い間住んでいた屋敷だ。

「ここには、だれが住んでいるの?」

 チャンスはたっぷりと考えた後、

「……いや、誰も。誰も住んでねえだろ」

 その言葉に、ユーネは寒気を覚え、そして悲しくなった。

 そう。死んだ“魔”エレザは、彼女が存在した証である記憶のすべてが、人の中から消え去ってしまう。この屋敷によく遊びに来ていたJTに同じ事を聞いても、チャンスと同じ返事を返すだろう。

すべて、なかったことになってしまうのだ。魔が積極的に人に介入しないのは、こうやって忘れられたときに自然にバランスが取れるような位置に身を置いているのであって、そしてそれは本能に刻まれているといわれている。魔は人の世界にとってはイレギュラーな存在でしかなく、人はその死を認識できない。魔の死を認識できるのは、魔と同じように人の世界に存在している神や、同類の魔、そして、人間であったならば“魔”を殺した本人のみだ。

魔はこうやって人々に忘れ去られるのである。

ユーネが魔性を捨て、魔である己を捨て去りたい一番の理由――死によって己のすべてが忘れ去られる。そんなこと、彼女には耐えがたかったのだ。

 

 

 

家の中には誰の姿もない。ユーネとチャンスはどこかへ行ってしまったし、母はミニーおばさんの家へ行った。JTは真っ暗な部屋のベッドに1人で膝を抱いてうずくまっていた。

明日になれば、この家には母と自分しかいなくなる。祖父が母に残した大きな家。ユーネを迎え入れてもなお、部屋は3つ余っていて、掃除を億劫がる母はこの家をつねづねもてあましていた。

(きっと広すぎるね)

 いや、広いとか、そんなことは彼女にとってはきっとどうでもよい話だったのだ。仮にチャンスと入れ替わりに5人がこの家にやって来て、多すぎるすべての部屋を埋めたとしても、騒がしさにJTの気分は少しは紛れるかもしれないけど、彼女の中の空白は埋まりはしないだろう。

 薄い毛布を引き寄せ、もぐりこんで丸くなる。

 今日みたいな夜も明日もこうやってうずくまってやり過ごしたいと思ったけど、どうやっても寝付けそうにはなかった。

 目は冴えるばかりだった。

 

 そうやって丸くなっていると、部屋のドアを叩く者があった。叩き方でわかる。

(……お母さん)

「JT、起きてる〜?入るよ」

 言うが早いや、ドアを開けてずかずかと入ってくる。ふらついた歩みが足音から分かる。ようやくベッドにたどりついて、モモはそこに腰をおろす。

「JT〜、寝てないよね」

 毛布に包まって丸くなったJTをぽんぽんと叩く。

 寝たふりをしようかと思ったけど、黙って毛布から出た。母親というのは不思議と子供の寝たふりにはだまされないものだ。いや、不思議なことなんてきっとない。寝て、起きて、そんな繰り返しを彼女はずっと見守ってきたのだ。

「や〜んJT〜」

 毛布から這い出てきたJTに酒のにおいを漂わせながら満面の笑みで抱きつくモモ。いつものことだけど、仕方ないなあって笑みがこぼれる。

「ねえ、JT」

「何?」

「チャンスのお父さんのことって話して聞かせたっけ?」

「うん……」

 以前、モモが酔っ払った弾みでJTに話して聞かせたことがある。チャンスの父親……母の昔の恋人の話。

 チャンスの父親は昔、恋人だった母を置いて怪しい医者について旅に出た。チャンスの父親は、母とは違う女性との間にチャンスを授かった。聞かされているのは、そんな話。

「……だけど違うんだ。あたしは、置いていかれたわけじゃない。あたしはついていくことだってできたんだ。あたしがそうするって決めて、行くって言ったら……いや、無理やりにでもついていったらよかったんだ。あたしはそうすることだってできたけど、そうしなかった。疑わなかったんだね。何か特別な選択をしなくたって、当たり前に同じ明日が来るなんてみっともないことをね」

 今日という日ではなかったらその話はひどく唐突だったかもしれない。今、モモはJTに別の道があることを示そうとしていた。

 今のJTの状況は、昔のモモの状況にとても似ていた

 モモは優しく笑う。

「でもね、今は別にいいんだ。JTが生まれてくれたからね……」

「お母さん……」

 モモはJTを抱く腕に力を込める。JTはされるがままに体を預け、口を開いた。

「お母さん……あたしは村にいるよ」

「…………」

 それを言ったときのモモの表情はといえば、JTは後で思い出したとき、それがとても複雑そうな表情だったと記憶していた。

「ん……そ。そっか……」

 モモはJTから離れると、

「あたしの娘だね」

 立ち上がったモモの表情は、小さく微笑して――多分、あれは苦笑いだったと思うけど、お休みだけ言って、部屋を出た。

(これでいい……)

 このまま毛布に包まって目をつぶって、きっとチャンスたちは朝早くにこっそり出て行くだろう。毛布に包まった明日一日そうやってやり過ごして、目を覚まして、そのときからまたカシンの村の娘として生きていく。そう、そうやってやり過ごす。そうでないと……

 

とん、とん、

 

ノックの音。モモのものではない。

『……JT?』

 ささやくような声でドアの向こうから呼びかける声。そして、ゆっくりと開け、中に入ってくる。その足音はふたり分。

 JTは先ほどと同じように、息を潜めて毛布に包まったまま息を潜めた。

「JT……寝てんか」

 チャンスはモモと同じように、JTが寝ているベッドに腰をかける。そして毛布越しに、JTの頭を優しく撫でた。そんなしぐさが、母にそっくりだった。血がつながっていなくとも、二人は確かに親子だった。

 チャンスは立ち上がり、部屋のドアを開ける。そして……

「ごめんな」

 そう呟いて、部屋のドアを閉めた。チャンスの声と、ドアのきしんだ音が耳からしみわたる。

(――あ……だめだ)

 こらえきれなくなり、JTは布団を跳ね上げて、

「チャン、ス……」

 チャンスを追おうとして部屋を出ようとしたJTだったが、予期しなかった者の姿が部屋の中にあった。

「おはよう」

 ユーネがいた。

「ユーネ……あたし……」

切羽詰った表情のJTに微笑みかけるユーネ。

「ゴメンねって、優しいお兄さんね」

 チャンスが消えたドアを見つめるユーネ。

「それに、あたしもゴメンだけど、あたしは耳がよすぎて聞こえちゃってね。……お母さま、良いお話をしていたわね」

 ユーネはJTの傍に近寄る。

「そうね……例えばあなたがあの子――チャンスについていくっていったって、あたしは邪魔にしないわ。危ない旅だから、決してすすめはしないけど」

 ユーネはJTの額に手をかざした。

「眠れないのなら、あたしが魔術をかけてあげる」

 ユーネは呪文をつぶやき始めた。先ほどまでどこかに行っていた眠気がぐっと押し寄せてくる。

 JTはその魔力に目いっぱいの抵抗した。

「……ユーネ」

「なあに?」

 頭にも靄がかかり、眠りに落ちそうになるのを必死にこらえ、口を開く。

「……ユーネは、すごく強い……魔術師、でしょ?……わかるの」

「何か、見た?」

「そうじゃ……ない、けど……わかるよ。誰もかなわな…い、くらい、特別な魔術師って、分かるの」

「そう」

 手をかざしながら苦笑いをするユーネ。

「その……そんな、強い魔術師が……どうして、チャンスを連れて行こうとするの?」

「ん?」

「きっと……1人だって……ぜんぜん平気でしょ?」

「……だって、ほら――」

 ユーネの手から優しい光が輝く。

「――やっぱり、ひとりじゃさびしいじゃない」

 優しい光に頭が溺れてしまい、とうとう耐え切れずにJTの意識は旅立った。

その間際に――

(そうだ……そうだね)

 ――なんて、納得して。

 

 

 

「ミニー、ミニー、ミニーちゃんてばさ?」

 モモはテーブルを挟んで向かい側にいる親友の名前を連呼した。

「あー、あー、もう。聞こえてるよ」

「あーん?どうだかね」

 ミニーは気のない返事を返してよこした。聞こえているといっても、名前を呼ばれたことを認識しているだけだ。これまでしていた話なんかきっと認識していないだろう。

 どうせ、取るに足らない世間話だったけど。

 このところ、この親友はこんなふうにぼんやりしていることが多い。そして、原因は分かりきっている。

「ねえ、お互いダンナからも子育てからも解放されて、いよいよ自由気ままだねえ」

「…………」

「なー気にすんなってばよー。どうせ遅かれ早かれ親と子は別々になんだからさ。」

「……アンタね、1年前にチャンスとJTが出て行ったときは、いい年こいてぴーぴーな泣いてたクセにさ」

「年のことは言わない!」

「泣いてることはいいのか」

 それを無視して、モモは乾杯とばかりにグラスを掲げた。ミニーは呆れたように、はいはい、と苦笑いして乾杯代わりにグラスを揺らした。

 ミニーの娘、ロミナはひと月ほど前に家を出ていった。剣士になると言った彼女は、それを反対したミニーと言い合いになり、喧嘩別れの形で出て行った。追いかけはしなかった。

(自分の娘がやることを信じているからだ)

 そう思ったけど言わなかった。

「さびしくなったね」

「そうだね」

「ひとりだと、家ももてあましちゃうしね。そういえば、誰も住んでない家あったでしょ。レンガの。今の家出て、ふたりで住もうか」

「逆にもてあますよ」

 ずっと、誰も住んでいないくせにやけに小奇麗なレンガ造りの屋敷。あの屋敷だけで、モモとミニーの家を足した以上の広さがある。

「それにさ、だって、家に誰も居なかったら困るでしょう?」

 ばつが悪そうに、そして悲しそうに、家の中を見回す。それは、或いは照れ隠しだったかも知れない。誰が困るかなんて、そんなことは聞くまでもない。そしてそれは、モモも同じだった。

 だからモモはただ、

「うん、そうだね」

 といって微笑んだ。

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