数年前に旅に出たアークを、私はずっと待っていた――

 

 

 

 ある雨の夜。夕飯の後片付けを終えたモモの元を、一人の男が尋ねてきた。

 モモが家のドアを開けると、見知らぬ顔の、顔立ちの幼い男が雨に打たれて立っていた。それも結構な美形だ。

「すみません、モモさん……のお宅はこちらでよかったですか?」

「……ええ、そうですけど」

 モモがそう答えると、

「ああ、よかった」

と安堵の表情を見せ、

「申し訳ありませんが、お話があります。部屋に上がらせていただけませんか?」

とモモに要求した。

 そう言われて、モモは少し躊躇した。モモはまだ23歳の年若い(亜人種ではないモモには微妙なところだが)女性だ。少年とはいえ顔も見知らない男が夜に家を訪ねてきて、いきなり家に上げてくれなどといわれて、おいそれと招き入れるわけにはいかない。

「せっかくですが、夜も遅いことですし……、どうしても大切なお話でしたら、明日にでもこちらからお伺いします。小さい村ですが、宿でしたら……」

と、モモが言い切る前に少年が口をはさんだ。

「アーク……アークエスさんから、ことづけがあります」

 その名前を聞いたとたん、モモの心臓は跳ね上がり、しばし言葉を失った。

 

 

 

モモは紅茶を2人分淹れ、テーブルに運んだ。

紅茶を少年の前のテーブルに置いてやると、彼はモモに軽く会釈をした。

少年と向かい合うようにモモもテーブルにつき、自分の分のカップに口をつけた。そうすると彼のほうも温かい紅茶のカップに手をつけ、口に運んだ。

よく見ると少年はずぶ濡れの有様だった。まだ春先とはいえ、彼の姿はみていて非常に寒々しい。お茶を出すより先にそちらに気を回せばよかったのだが、アークエスの話を出されてよほど動揺していたらしい。

モモは隣の部屋に干してあった大きめのタオルを取ってきて、彼に与えた。

玄関先ではなんと図々しいと思っていたその少年は、今はモモの前でおとなしく座っている。

しばらく沈黙が続いた。

モモは、場の雰囲気から、とても話しづらい話題をこの少年は持ってきたのだろう、と察した。

村を出て行ったアークエス。

彼はモモの3つ年上の幼なじみであり、恋人でもあった。

6年前まで同じ村に暮らしていた彼だったが、村に訪れた白衣の冒険者に見込まれ、もうひとりの友人とともに冒険の旅に出た。

冒険にでて3年くらいは半年に一度くらい、手紙を書いて旅の無事を知らせてくれていた。それがここ3年、全く音沙汰がなかった。

手紙がこなくなった年、待てども来ない手紙を待つ日々にモモはいくらか泣いたが、その次の年にはずいぶんと吹っ切れた。彼は旅の末に朽ちたのだ。あののんびり屋の顔を見ることは、もうないのだ。そう考えることにした。

手紙がこなくなって3年目、泣きはしなかったが、悲しみに心を痛める日が年に何日かあった。それでも彼女の生活にははじめからアークエスの姿がなかったかのように、一人の暮らしになじんでいた。

この少年の来訪はおそらく、遅すぎる彼の凶報を伝えるものだろう。

彼女は、それを聞く覚悟ができていた。

きっと、泣くこともないだろうと思う。

少年はまだ口をつぐんだままだ。いつ切り出そうかと迷っている彼に、モモはきっかけを与えるべく、話し始めた。

「……アークのことでしたら、お話を聞く準備はできています。彼が旅立って行ったときから、覚悟はできていましたから……」

 モモは薄く笑ってそう言い、少年の話を促した。

 覚悟はできているといった彼女の体は、幾分かこわばっていた。背中に汗がにじみ、彼女の体を冷やしていく。

 モモに促され、少年は口を開いた。

「大変、驚かれると思いますが、どうか落ち着いて話を聞いてくださいね……」

 彼は背中に背負っていた布の包みをテーブルの上に置いた。その包みは上に水を弾く生地をかぶせてあったらしく、全くぬれていなかった。

 そこまで大事に扱うということは、おそらくそれはアークエスの遺品だろう。もしかしたら遺骨かもしれない……モモはそう思った。

 少年は包みをテーブルの上で広げて見せた。そこにみえたのは、モモにとって全く意外なものだった。

 「…………!」

 布の包みから出てきたのは、一人の赤ん坊だった。

 その赤ん坊を目の当たりにしたモモは、全く予想外のものの出現に錯乱していた。

「え?あの……遺品は?そうでなければ遺骨……」

言動からも彼女の錯乱ぶりが伺える。

「遺品って……誰のですか?アークさんはご存命です」

「はあっ!?」

 寝耳に水だった。モモはこの少年がアークの訃報をつたえにきたとばかり思っていたのだから。

 それを聞いたモモは少し呆然とし、しばらくすると笑顔とともに涙がこぼれた。

 泣くことはないと思っていた彼女だったが、思いもよらない形で裏切られた。

「まったく……人騒がせなんだから……」

 それは全く見当違いな話で、彼女が勝手に勘違いをしていただけの話なのだが。

しかし、少年の方は彼女のそんな様子を見て、身をこわばらせていた。

ひとしきり感激し終わった彼女は、再びテーブルに目を向けた。

「ところで、この赤ちゃんは?あなたの子供?」

 訊ねられた少年は涙を浮かべたモモの顔を見てわずかに躊躇したが、やがて意を決した、という表情で、事実を彼女に告げた。

「この子は、チャンス。……アークエスの息子です」

 あまりに上へ下へと揺さぶられすぎた彼女の心は、その言葉が告げる残酷な事実に耐えきれず、床に崩れて意識を失った。

 

 

 

 モモがベッドから起きあがると、日がちょうど東の窓に顔を出していた。

 昨日の雨天から一転、からっと晴れ上がった空。太陽が起き抜けの瞳に眩しい。

「んんっ……」

 少し伸びをしてベッドから起きあがる。昨夜はどうやら寝間着に着替えずベッドに入ってしまったらしい。昨日着ていた麻のシャツにロングスカートのままだった。

 昨夜は何か悪い夢を見た気がするが、ほとんど覚えていない。朝起きるとどんなに悪い夢でもさっぱり忘れてしまう。

「さ〜て。今日も一日がんばっちゃおうかなーっ!」

 着替えをすませると、彼女は朝食を作るべく台所に足を運ぶ。

 自室をでて廊下から居間へ続くドアを開けると、夢の続きがそこにいた。

「あ、おはようございます」

 ばたん。

 居間へは入らず、そのままドアを閉めた。

 もう一度ベッドに潜り込みたい気分だった。というか潜り込んだ。

「どうしたんですか、モモさん」

 少年が部屋のドアをどんどんと叩く。

 まもなく扉を叩く音がやんだ。

 

モモはしばらくベッドの中で伏せっていた。

 考えたくなかった。ドアを開けるとアークの子供がそこにいるのだ。アークの子供ではあるけど、自分の子供ではない。そんな存在を、モモは認めたくなかった。

 それから1時間ほどそうしていた。

 

 またしばらくするとドアを叩く音が聞こえた。今度はどんどんという乱暴な音ではなく、コンコンとドアをノックする音だった。

「モモさん、台所を少し借りて朝食を用意してみました。いかがですか?」

 ドアの向こうから少年が呼びかけてきた。それとともに、焼けたバターの香り。

 少しだけ落ち着いたモモは、先ほどこの少年にみせた、子供のような行動を恥じていた。大の大人が取る行動ではなかった。

 モモはドアをゆっくりと開け、昨夜と同じように少年と向かい合ってテーブルに着いた。

 テーブルの上には二人分の朝食が並んでいた。買い置きしておいたパンと、今朝配達されてきたのであろうミルクとベーコン。目玉焼きがあったが、卵の買い置きがなかったはずなので少年の所持物だったのかもしれない。

 モモは一言だけいただきますとつぶやいてパンにかじりついた。少年の顔は極力見ないように、下を向いて食事をとった。モモが顔を上げていれば少年の少し困ったような顔が見えただろう。

 二人とも朝食を終えると、おのおの食器を下げ、モモがそれを洗った。

 モモが片づけを終え居間に戻ってくると、少年が椅子に座り、赤ん坊をあやしていた。

 少年は一晩いただけなのに、どうもこの家になじんでいるようだ。やはり結構図々しい性質なのかもしれない。

 モモは先ほどまでと同じように少年の向かい側の席に着いた。しばらく少年が赤ん坊にあやすのをみていた。ずいぶんと様になっていたので、モモは少し感心した。

 眠くなったのだろう、赤ん坊はそのまま眠り込んだようだ。

 赤ん坊を抱いたまま、少年は話し始めた。

「昨晩お伝えできなかったことなのですが」

少年、顔を引き締め、

「この子……チャンスをモモさんに引き取ってもらい育てていただきたい、というのがアークさんの希望です」

 最初、モモは何を言われているのか理解ができなかった。頭でその内容を理解すると、どうしようもないくらい怒りがこみ上げてきた。

「……はあっ!!?」

 モモの一言で少年の顔はこわばった。額にうっすらと汗を浮かべている。

「え、ええと、ですね。チャンスの母親はこの子を育てることはできないし、アークさんの旅も危険なもので、チャンスをつれたままでは……アークさんは一番信頼を置けるモモさんにチャンスを育ててほしいと」

「そんなの……あんまり自分勝手じゃない!」

 自分にだってプライドがある。自分を裏切った男の子供を育てろなんて、なんて無神経で、傲慢……。ばかげた話だ。とても聞き入れられない。

 少年は顔をうつむかせ、黙っていた。その顔にはやはりか、というような表情が浮かんでいた。

 爆発しそうな感情を抑え、精一杯の平静を装ってモモは口を開いた

「悪いけど、よそを訪ねて」

 ふあ……。

「あ、すみません。チャンスが……」

 先ほどのモモの声に驚いたのだろうか。チャンスがぐずり始めた。

 泣き始めると、声は途方もなく大きくなった)。だが、それはほんの短い間だった。

「よしよし、チャンス……」

 少年が優しく微笑んであやすと、チャンスは瞬く間に泣きやんだ。小さい子供と接する機会のないモモには、それがなにか特別な魔法のように思えた。

 チャンスは少年の魔法でまたすぐに眠りについた。

少年の顔に安堵の表情が浮かんだ。 

(この人は、もうすっかりチャンスのお父さんなんだ……)

 チャンスを抱く姿も随分様になっているような気がする。

 少年の腕の中で寝息をたてる赤ん坊は、父親が自分を育てることを放棄したなんてこと、きっと知らない。冒険と子供を秤にかけて冒険を選んだ、なんていうことは……。彼の道楽がどれだけ大切なことだというのか。

 そう考えると、モモはこの赤ん坊がとても哀れに思えてきた。

「無理を言ってすみません。無茶な話だなって、正直僕も思ってましたから……もう一度、あてを探して――」

「待って」

 モモは我知らず、少年を引き留めていた。

「あてなんて、ないでしょう?」

 少年は俯いて、苦笑した。

「探します。チャンスのためですから」

 強い少年だった。こんな少年に子供を預けて、自分は気ままに冒険をしているのだろう。チャンスがこの少年の子供だったら、きっと幸せだっただろう。

 いや、まだチャンスの人生が幸薄いものと決まったわけではない。

 モモは少年に告げた。

「きっと、子供には親の無責任の罪はないんだわ。小さくて、何も知らないんだから。ただ、親の因果で子供が不幸せになることはあるから。そういう子供は……自分にできるのなら、できる限り救ってあげたい、って思う。だからこの子は、私が育てる。チャンスのために、あと、あなたのためにね」

「モモさん……」

 モモのその言葉に対して、少年は笑顔で彼女に返礼した。

 モモはそっと、少年の腕の中からチャンスを抱き寄せた。

 少年は空っぽになった腕の中を寂しげに見つめ、はにかんだ。

 赤ん坊を抱くのに慣れていないモモは、すぐにチャンスを泣かせてしまったが、少年がすぐにフォローしてくれた。

「どうも、まだしばらく君の助けがいるみたい……。お願いできる?」

 少年は初めて年齢相応の快活な笑顔を見せて大仰に頷いて見せた。

「はい、喜んで!ゲイン・エーネル、17歳!チャンスの父親役の大任、立派にはたしてみせます!」

 

 

 

 チャンスを引き取り、はやひと月が過ぎていた。

 どことなく家の中が甘ったるくなったような空気をモモは感じていた。赤ん坊が家にいるというのはこういうことか。

 モモには育児に疲れた様子が色濃く見えた。

「モモさん、お疲れの様子ですね」

 洗濯を終えて戻ってきたゲインがモモに声をかける。

ここ1ヵ月間、ゲインはこの家の家事一切を取り仕切っていた。家事が苦手なわけではないが、やることは無ければ無い方がいいと考えているモモは、内心、

(この子、使える……)

なんて思っていたが、それはモモの心の中にだけ仕舞われている秘密だ。きっと、アークも重宝したのだろう。

 せめてその彼の労をねぎらうために、重い腰を上げ、カップにお茶を淹れて彼に出してあげた。

「…………」

 なんだか、一気に年をとったみたい。

 

 ありがとうございます、と一言礼を言い、ゲインは紅茶の注がれたカップを受け取った。

 カップを傾けながら、ゲインはモモの顔をちらりと見た。

(ずいぶん疲れているみたいだな……)

 憂いを帯びた表情、というよりは、どこか所帯疲れした主婦の顔、そんな感じだった。

 彼女がチャンスを引き取ることを決意して1日目、その時はモモの瞳に強さをみたゲインだったが、今の彼女の目からはそんなものは消え失せていた。

 もしかしたらいつまでもずっとチャンスの面倒をここでみていなければいけないかもしれないな、とそう思ったが、ゲインはそれでもまあいいかなとも思い始めていた。

 宿屋の次男坊であったゲインは15の頃、家を飛び出してギルドで仲間を捜し、冒険の旅に出た。彼にできることといったら、料理とか洗濯くらいのものだったが、それでも彼はものぐさな冒険者仲間から重宝された。

 最初の頃は胸躍る冒険に心をときめかせたゲインだったが、幾たびかあった危険の連続に、ゲインの心は耐えられなかった。実のところ、ゲインは非常に臆病な人間であった。そんな彼がそんな風に揺さぶりを受けるたびに、冒険心は磨り減った。冒険に躍る心と好奇心をなくした彼は、精神が急速に年をとり、まるで老人にでもなったかのような錯覚を覚えた。

もう、どこか一所に落ち着きたい。ゲインは、冒険には向かないと考える自分に気づいていた。

このままここでチャンスの父親として生きていくのもいい。そう考えていたゲインだが、そのことの意味するところまでは思い至らなかった。

モモはテーブルの上で遊んでいるチャンスを眺めながら、こう言った。

「ねえ、ゲイン。私、こうやってチャンスを見ていても、愛おしい……って感じないんだよね」

「…………」

「この子を引き取ったのは多分、この子が可哀相って思ったからなんだね。きっと愛情とかじゃないの。同情なのね。こうやって見てても、べつに可愛いとか思わないの」

 ある日突然、自分の恋人だと思っていた男が別の女に産ませた子供を育て、その子供に愛情を注げといわれたのだ。母になるまでの心の準備も一足飛びに。無理からぬ話だ、とゲインは思った。

「……母親っていうのは、なんていうか、そう、結構そんなものみたいですよ。愛情の注ぎ方とかわからなくて、しばらくとまどったりしたって。仲の良かった女友達が2人産んだんですが、そんなこと言ってました」

 ゲインはとっさに嘘をついた。自分がここにいるうちに、彼女には『母親』になってもらわなければいけない。

「……そっか。そんなものか」

 モモはどうやら素直にゲインの話に納得してくれたようだ。ゲインはほっと一息つき、カップのお茶をぐいとあおった。

「熱っ!」

 淹れたばかりのお茶はすこぶる熱く、湯がゲインの舌を軽く焦がした。

「あ〜……ったく。なにやってんのさ?」

モモがそれをみて笑う。

 格好悪いところを見られたな。ゲインは苦笑しながらモモが素早く持ってきた水で口内を冷やす。

 だあ……。

「?」

 チャンスはそんなやりとりが面白かったのか(やけどをして舌を出したゲインの顔が面白かったのか)、だあだあと声を出して笑っていた。

「こらチャンス。なに笑ってんのさ」

 そういってゲインはチャンスを抱き上げ、高く持ち上げた。そうしてやるとチャンスはますます喜んだ。

 この家にきてからしばらく、チャンスはあまり笑わなかった。同じ場所に2日と留まったことのないチャンスにしてみれば、どうしたのだろうと思ったことだろう。今になってやっと、落ち着ける場所だと確認できたのかもしれない。久しぶりに見たチャンスの笑顔だった。そして――

 そんな二人を見てころころと笑うモモ。ゲインはモモのそんな笑顔を初めて見た。

ああ、大丈夫だ。きっとこの人は母親になれる。だからゲインは、

「もう、大丈夫みたいですね」

と、そっと呟いた。

 

 

 

それから3日後の早朝、ゲインは一人分の朝食と一枚の手紙をテーブルの上に置き、旅の支度をした。

ゲインはアークエスに、チャンスを届けたらもう自分の家に帰れ、そう言われている。無愛想な彼の、弱いゲインへ対する僅かばかりの心遣いであったかもしれない。あのまま旅を続けていたら、きっとどこかで若くして命を落としていただろう。

一晩考え、ゲインはその言葉の通り実家の宿屋に帰ろうと決めた。宿を継いでいるはずの兄を手伝うつもりだ。きっとひどくしかられるだろう、なんてそんなことを考えていた。

チャンスとモモさんにはもう、会うことはないかもしれないな。そう考えると彼の心は寂しさでいっぱいになった。どうしてあのふたりが袂を分かつことになったのか、どちらにもちゃんと話を聞いたことはなかったけど、

(……いや)

 あまり聞きたくないな、とゲインは思った。

旅の支度と与えられた部屋の片付けを終え、ゲインは部屋を出た。

部屋をでたところで誰かの頭が見えた。いや、この家に、この高さに頭を持つ人は一人しかいない。

「……おはようございます」

「おはよう」

 モモは挨拶を返すと、テーブルの自分の席に着いた。

「一人分足りないよ。朝食」

「あ……」

 なんといっていいか分からなかった。母親に叱られたとき、自分はこんな風に停まっていた。

「……ずっと、いなよ」

 ゲインははじめ、なにを言われたのか分からなかった。

「ずっとここにいなよ。父親がいないと、この子は強い子に育たないよ」

 モモは母親のような、父親のような笑顔でゲインにそういった。

「いいんですか?」

 そんなゲインの問いに、モモは笑顔のまま頷いて返した。

 ゲインは自分の部屋に荷物を置いて、もう一人分の朝食の用意に取りかかった。

 

 

 

 特別な朝、今日はチャンスが旅立つ日だった。

だけどモモは、それをきちんと見送ることができない。モモは、チャンスの旅立ちをきちんと認めたわけではないのだ。モモは、家の窓から遠めにチャンスと、彼を連れていくユーネという少女の背中を見つめた。背の高いふたりは、家からずいぶん離れていってもその姿を確認できた。

 14歳のチャンス。同じ年頃の少年たちより立派な体格に、父親譲りの炎の魔剣。少年の頃のアークエスに瓜二つだった。

 きちんと“行ってきなさい”とは言っていない。ただ、チャンスのカバンにはモモの手紙が添えられている。そしてチャンスは、やはり親子で考えることは同じなのか、彼の部屋のくずかごから書き損じた何枚もの手紙がでてきた。モモとJTにあてた数枚の、くしゃくしゃに丸めた紙。ただ、完成品はなかった。

 

 遠く、遠く離れて、やがてチャンスたちの姿は点になった。

 点が点ではなくなるま、モモはチャンスたちの背中を見ていた。

 しばらくそうしていたら、後ろから大きな声が聞こえてきた。

「お母さん!?」

 声の方に振り返ると、小さな娘が大きな荷物を抱えて走ってきた。

「お母さんお母さん!チャンスはチャンスはっ!?」

「もう行っちゃったよ」

 娘のJT。

小柄な体にはねた髪。ゴムまりのようにぴょんぴょん跳ねまわる歩く元気の固まり。

きっと私に似たのだろう。

「どうしたの、その荷物」

 JTは背中に背負った荷物を地面に下ろし、こう言った。

「私も!チャンスと一緒に行く!」

 それを聞いて、モモは目を大きく見開かずにはいられなかった。

「え?」

「ごめんお母さん……でもあたし、行かなくちゃって、だって、戻ってこなかったらって、だからあたし……」

 その言葉を聞いて、モモはどきりとした。

だが、モモはただ、JTに優しくこう言った。

「そうだね、そのとおりだ。ずっと一緒にいたいと思ったら、ついて行くしかないんだ」

 それからぽんぽんと2度JTの頭をはたき、思い切りJTの背中をはたいた。

「さあ、行ってきな!」

 そう言って豪快に笑ってJTを送り出した。

 行くと言ったら、最初からこうやって送り出してやるつもりだった。

 荷物を抱えて弾けたように出ていったJT。2度、3度モモの方を振り返ったが「置いて行かれちゃうよ!」と声をかけてやると、一目散にチャンスの後を追って走り出した。

 

 ついて行かなかったことを悔やんだ日もあった。覚悟できなかった自分の弱さを呪った。そんなものを、娘のJTはあっさりと飛び越えていった。

 そう。あの日ついて行けなかった私の代わりに、今度はJTが走り出した。

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